わたしたちの学校では12月の最終日にクリスマス会を行っています。
とはいえ、日本語学校は特定の宗教に基づいた教育を行っているわけではありませんから、
宗教行事ではありません。

ではなぜ「クリスマス」と銘打つのかという議論はさておき、
その内容について考えてみたいと思います。

時代は流れ、行事の内容もずいぶん変化してきましたが、
コロナ以前はクラス毎に出し物を発表するいわば発表会でした。

今日はそんなクラスの出し物についてのお話です。

 12月の定期試験が終わると、クラスではいよいよ
「クリスマス会の出し物」を決めてその練習が始まります。

内容は劇、歌、ダンス、ショーなど自由。
要はみんなの前で何かパフォーマンスをするわけですが、
持ち時間は5,6分程度でしょうか。



 私が個人的に一番好きだったのは「劇」です。

学生から言い出したときもありますが、意見が出ないときは担任教師の特権を発動して
「みんなで劇をしよう!」と率先して提案していました。

劇が好きな理由ですか? 
それは一度でも体験していただいたらわかると思うのですが、
外国語で劇をすると学生がすごく成長するんです。

また劇は総合芸術ですから、出場者はもちろん
小道具や音響担当の学生全員が協力するという
団結力を味わうことができるからなんです。   

 初級から上級までいろいろなクラスがさまざまな劇を披露してくれました。
『浦島太郎』
『シンデレラ』
『ロミオとジュリエット』
『アナと雪の女王』
『名探偵コナン』
『アラジン』
『つるの恩返し』
などの物語や、

『家政婦のミタ』
『コードブルー』
などのドラマ、

あるいは『日本語学校の1日』
『サラリーマン上司との飲み会』
『今年のニュース1年』
などオリジナルの台本を演じたクラスもありました。   
 

 1週間程度で劇を作り上げるのは、ほんとうに大変です。
授業とは比べものになりません。

まず、話し合い。
何をするか。
劇か歌かダンスか。
多数決で劇。
では何を演じるか。
全員に3つくらいアイディアを出してもらってまた多数決。
クラスの大多数が内容を知っていると決まりやすいです。

次に配役。誰が何をするか。
ここで大切なのは主人公の選出です。
日本語が上手なだけでなく、演じることができる人を選ばなくてはいけません。 
ここでいう日本語が上手という意味は
「テストの点数がいい」のではなく
「会話が上手」という意味です。

点数なんてまったく関係ありません。    

台本も大切です。
上級クラスでは学生が台本を書くことも多いのですが、
消極的なクラスの場合は私自身が台本を書いたこともありました。 

一度出来上がってもそれで完成ではありません。 
練習しながら話しやすい言葉に変えたり、必要なセリフを加えたりします。    
 できるだけ多くの学生が出られるように、主役以外の配役も重要です。
たとえそれが「木」や「門」などの背景であっても立派な配役です。
セリフがない場合は、衣装や小道具に凝ってその重要性を本人にも周囲にも伝えます。    

 もちろんシナリオ通りにはいきません。

劇に積極的に参加する人もいれば、
協力的でない人、無関心な人、出たくない人などがいますから、
クラス担任は頭を抱えてしまいます。

「私はやりたくないです」
「わかりません」
「恥ずかしいからやりたくないです」
などいろいろ言ってくるわけです。
そんなとき、私は次のように言ってきました。

これも授業のひとつ。
みんなで一つのものを作り上げる協力の勉強ですよ。
舞台に立たなくてもいいんです。
小道具とか音響とか、舞台を支える仕事をしましょう、と。

あとはできるだけ本人が得意なことを頼むようにします。
音楽に詳しい人には音楽を決めてもらい、
読むのが得意な人にはナレーションをやってもらう。
絵が得意な人には背景画を描いてもらう、など。

そうすると、その1週間は才能大発見の日々となります。
Aさんはこんなに絵が上手なんだ!  
Bさんのナレーションはさすがだね。 
Cさんのダンス、最高!    

 でも、いちばん効くのは教師が本気になることでしょうか。

担任も副担任も必死になってものづくりに参加している、という態度や姿勢は伝わるものなんですね。
どこまで真剣に遊べるか、
どこまで真剣に楽しめるか。    

 クリスマス会当日の学生の集中力はすさまじく、
予想以上の出来栄えに、観客はお腹を抱え涙を流しつつ笑うことになります。 


そして終わった後、気づくんです。 

あれ、みんな、「日本語」で演じていたよね。 
何も見ないで話していたよね。
こうなると日本語は正真正銘の単なるツールです。 

日本語で演じたすごさにみんな気づいていますか。 christmas                                                                        
「わたしは、やりたくありません」